読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

プラトン『国家』

今年は禁欲を目標にします。目標についてはゆくゆく書くとして。

 

プラトンの『国家』は、常に鞄の中に入れて読んでいるほどの愛著なのである(あんまり読んでないが)。

本当に2500年前に書かれた本なのかと思えるくらいの内容の濃さ。

今日気になった内容を紹介しよう!

 

ソクラテス「・・・そもそも教育というものは、ある人々が夜に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。カレラの主張によれば、魂の中に知識がないから、自分たちが知識を中に入れてやるのだ、ということらしい。あたかも盲人の目の中に視力を外から植え付けるかのようにね」

「ええ、たしかにそのような主張が行われていますね」

「ところがしかし、今の我々の議論が示すところによれば、ひとりひとりの人間が持っているそのような(真理を知るための)機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、初めから魂の中に内在しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、体の全体と一緒に転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体と一緒に生成流転する世界から一転させて、実在及び実在の内最も光り輝くものを見ることに耐えうるようになるまで、導いていかなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは我々にとっては「善」にほかならぬ。そうではないかね?」

「そうです」

「それならば。教育とはまさにその器官を転向させることがどうすれば一番やさしく、一番効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それはその器官の中に視力を外から植え付ける技術ではなくて、視力は初めから持っているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ。」

 

ちょうど太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩の終わりあたりの文章である。

現代でいうところの、詰め込み教育というのが、ソクラテスの主張する「外から植え付ける技術」ということなのであろう。そうすると、この文章を読む限りはプラトン自体は詰め込み教育を批判していると言える。

そうではなく、何が善いものか(洞窟の比喩で言うところの影ではなく、光のほう)を見る事ができるようにするのが教育のあり方だ!と、プラトン先生はおっしゃっているのである。

 

私個人的には、なるべく早い段階(中学あたり)までで詰め込みを濃縮させて、高校から何が善いのか正しいのかを考えるというような、今の大学の自由な学問を行うのがベストかと思っている。まあでもこれは私の経験論に基づくものなのである。やはり先人のいうことをしっかり吟味する必要がある。

やれ詰め込みゆとりがどうだのという視点ではなく、歴史的な考察を踏まえた議論が必要であろう。